日本史「その後」の謎クイズ⑫宇喜多秀家の子孫はいつまで流刑先の八丈島を出られなかった?
誰もが知る歴史上の出来事でも、なかなか知ることができないのが「その後」。雑学総研さんの『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎大全』(KADOKAWA)から、とっておきのエピソードを学びましょう!
次の質問の答えとして正しいものを選んでください。
関ヶ原の戦いで西軍の総帥として争い敗れた戦国大名・宇喜多秀家は、その後家康によって八丈島へ流罪となったが、秀家の子孫はいつまで島を出られなかった?
- 家康が亡くなるまで
- 家光の時代まで
- 明治維新後まで
- 昭和の初めまで
【ポイント】
関ヶ原の戦い(1600年)に敗れた戦国大名・宇喜多秀家は、1606(慶長11)年、「鳥も通わぬ」とうたわれた八丈島へ流罪となった。このとき秀家は35歳で、長男・秀高、次男・秀継のほか、10人の従者を伴っての道行きであった。当時、八丈島は流刑の島であったが秀家は身分の高い人物だけあって、島の住民から「浮田流人」と呼ばれて丁重にあつかわれたという。その後、三代将軍・徳川家光の治世、前田利常の死者が八丈島を訪れ、「赦免を願い出てはどうか」と打診したが、秀吉への恩義からこれを断り、釣り三昧の日々をすごして、1655(明暦元)年、84歳でこの世を去った。秀家の子孫はその後も島を出ることを許されず、赦免をえたのは明治維新後の1869(明治2)年になってからだった。
参照元:『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎大全』(雑学総研著、KADOKAWA)